鉾立山と呑山観音寺
呑山観音寺は福岡県糟屋郡篠栗町の鉾立山の麓にある高野山真言宗別格本山です。
篠栗八十八か所霊場の第十六番札所となっています。
塔頭(たっちゅう:小寺のこと)の天王院は第三十六番札所となっています。
篠栗町に八十八ある札所の中では最も標高の高いところに位置し、第1日目の遍路道の終着点、難所とされ、八十八か所の関所といわれています。
お遍路さん、参拝者からは「のみやまさん」という愛称で呼ばれています。
ご本尊は「千手千眼観世音菩薩」で、篠栗霊場開創より以前からこの地に祀られてきたと伝わる石仏です。
秘仏として、厨子の中に安置されていますが、10月の第3日曜日の秋季大祭の法会の時にご開帳されます。
堂内には無数の千羽鶴が掛けられています。
これは悪事を働いたお鈴という女性が本堂の鰐口に髪を絡めとられたという「お鈴の黒髪の霊験談」に依るものです。
以前は無数の黒髪が掛けられていましたが、現在は千羽鶴に形を変えて願掛けや御礼の為に奉納されてきました。
昔から霊験あらたかな祈願のお寺として広く知られ、心願成就、厄除け祈願のために多くの人々が訪れます。
現在も変わらず毎朝の護摩供祈祷、毎日の御宝前加持祈祷が行われ、多くの人が祈りを捧げています。
また、全国から多くの僧侶が集まり研鑚を積む伝授や講伝が行われ、阿闍梨と成るための修行、四度加行なども行われる修学、修行の場ともなっています。
広大な境内には本堂のほか、天王院、百観音堂、大師堂、愛染堂、阿弥陀堂、極楽往生院、七福神堂、講堂(信徒会館)、稲荷明神社、天神・淡島明神社、高野四社明神社など多くのお堂が建立されています。
春は桜、シャクナゲ、コブシ、夏はアジサイと深緑、秋は紅葉、冬は雪景色と四季を通して景観豊かで、
カッコウやカジカガエルなどの声が響き、身近に自然を感じることできます。
特に秋の紅葉は素晴らしく、千本のモミジや、千本のドウダンツツジをはじめ、木々が一斉に紅葉し、山は真っ赤に染まります。毎年多くの方が訪れ、紅葉を楽しんでいます。
呑山観音寺の山号になっている鉾立山の由来は諸説ありますが、一説には神代の時代、海津見神(ワダツミノカミ)の娘である玉依姫(タマヨリノヒメ)が、神武天皇の尊父である彦波剣武鵜茅葺不合尊(ヒゴナミサタケウガヤフキアエズノミコト)に嫁いだ際に鎮座する山の高さを見比べるため頂上に鉾をつき立てたためといわれています。
その玉依姫ご一行が目的地の竈門山に向うために山を下る途中、山腹に湧く清水を呑み、渇きをいやしたことから、この場所を「呑山(のみやま)」と名付けたといわれています。
また、一説には神功皇后が出兵の際、遠く玄界灘を望み、戦勝を祈願して逆鉾を山頂につき立てたとも伝わっています。
当山は鉾立山の麓、呑山の地で、古より祀られた一体の千手観音を起源とし、呑山の観音寺として今に伝わります。
天保6年(1836年)、四国巡拝の帰りに篠栗に立ち寄った尼僧慈忍の呼びかけで、弘法大師と縁のある篠栗に八十八ヶ所が発願され、慈忍の後を受けた藤木藤助たちによって開創されると、呑山観音寺はそれ以来、第16番札所となり、篠栗八十八ヶ所の関所と言われるようになりました。
今日も朝の御宝前での護摩供にはじまり、境内には清浄な空気と読経の声が響きます。
観音信仰の「祈りの寺」として、真言密教の修行の道場として、お大師様の「み教え」はこの地で脈々と受け継がれています。
呑山霊験記
古くから観音信仰が盛んだった呑山観音寺ではさまざまな霊験記が伝えられています。
その中でも有名な二つのお話をご紹介します。
「お鈴の黒髪」
寛永年間、香春岳の麓(今の福岡県田川郡あたり)に住む美貌のお鈴は亭主を殺して亭主の店の番頭と一緒になりました。
しばらく幸せに暮らしていましたが、呑山観音寺に来て本堂の鰐口の綱を引くと、大きく撥ね上がりお鈴の黒髪を巻き上げてしまいました。
お鈴は己の罪の恐ろしさを悔い肉付きの黒髪を奉納して観音さまに帰依し、改心したと伝えられています。
時は下って、明治期。嘉穂郡鎮西村の一人の女性が、呑山観音寺に参拝した時に、奉安されていた美しい黒髪が急に欲しくなり、本堂から盗み出しました。
自宅に戻って、寝床に入る頃になると、髪の毛が伸びて動き始めたので恐ろしくなりました。
結局、その夜は寝つけず、朝早くにお寺に登り、黒髪を返して謝罪したと伝わっています。
この霊験談は瞬く間に広まり、それ以後多くの人々が、心願の成就を祈り黒髪をお供えしました。
昭和30年代までは奉納された無数の黒髪が本堂内にかけられていましたが、
しだいに千羽鶴が奉納されるようになり、現在は無数の千羽鶴が本堂の天井から吊るされています。
お鈴の黒髪は本堂内陣のご本尊の隣の厨子の中に安置され、毎年の秋の大祭「本尊御開帳」に合わせて公開されています。
「指」
体の弱い女房のために亭主が観音様に願をかけたところ、たちまち元気になったため、お礼参りを勧めました。
しかし女房に信心がなく「お参りなんて遠すぎる、そんな暇があるなら馬のかいばでも切るわ」と藁を切ったところ、手元が狂い指を落としてしまいました。
よく見てみると、不思議なことに、落とした指は包丁を持っていた右手の親指と人差し指でした。
女房は不信心を反省し、指を奉納し改心したと伝えられています。
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